実務家がMaterials Informaticsに期待すること「第2章:シミュレーションとの使い分け」
前回の振り返り
初回となる前回は、「MIの本質的な特徴」から俯瞰して「MIは何ができるのか?」について考えました。 主なポイントは以下の通りです:
- MIの基本的な特徴と実現できること
- 統計的な手法による一般法則の抽出
- 実験結果の予測(順解析)
- 新しい研究計画の立案(逆解析/最適化)
- 属人的知識の保存と活用
- データから学べる関係性
- 相関関係の学習(因果関係ではない)
- 多次元の説明変数を用いた複雑な関係性の把握
- 非線形な関係や人間には見えにくいパターンの発見
- 複数の目的変数を同時に扱う能力
- 実務での活用における重要な柱
- データの質と量への意識
- 学習範囲の理解と活用
- 属人的知識の形式知化への取り組み
- 相関と因果の区別
- 実務での活用戦略
今回は、MIと比較されることが多い、シミュレーションについて取り上げます。 シミュレーションの特徴を説明し、そこから導かれるMIとの使い分けについて考えていきます。
1. シミュレーションとは[1,2]
MIはデータから相関関係を学習して予測を行う手法であるのに対し、シミュレーションは物理法則に基づく数理モデルを用いて現象を再現・予測する手法です。
シミュレーションは、コンピュータ上で材料や化学反応の振る舞いを数理モデルを用いて再現できるため、実験を行う前にその結果を予測可能です。 量子力学や統計力学などの物理法則に基づいて、原子・分子レベルからマクロな材料特性まで、様々なスケールでの現象を計算機上で実験的に検証することができます。 これにより、実際の実験では観察が難しい現象の理解や、新しい材料の設計・開発を効率的に進めることが可能になります。
計算科学とシミュレーション
シミュレーションは、MIと同様に結果を予測することが可能な技術ですが、その手法は全く異なります。 どんなところが異なるのかについて、図1に示します。
図1は、科学の発展を4つの特徴的な手法に分けて描いてあります。 図に示した通り、シミュレーションは、「第三の科学:計算科学」で中心となる技術に位置づけられます。 一般的には、計算科学とシミュレーションは、どちらも区別されることなく、同義語として使われることが多いようです。 本ブログ中でも特に断りがない限り、計算科学とシミュレーションは同じ意味で使います。
既に述べた通り、シミュレーションは物理法則に基づく数理モデルを利用するため、「第二の科学:理論科学」と深い関係にあることが理解できます。 そして、物理的な数理モデルが現実系をどこまで精密に表現できるかが、シミュレーションで計算し得る限界になります。
化学・材料開発に関わるシミュレーション
図1に材料開発に関わるシミュレーションの種類をまとめました。 シミュレーションは、観察したい時間や空間スケール、および観測したい現象により細分化されていることが特徴です。
| スケール | 代表的な手法 | 時間スケール | 空間スケール | 観測できる現象 |
|---|---|---|---|---|
| 量子スケール | 第一原理計算、量子化学計算 | フェムト秒 | 数Å | 電子状態、化学反応 |
| 原子・分子スケール | 分子動力学、モンテカルロ法 | ピコ秒~ナノ秒 | 数nm | 分子構造、拡散 |
| メソスケール | 粒子法、セルオートマトン | マイクロ秒~ミリ秒 | 数μm~数mm | 相分離、組織形成 |
| マクロスケール | 有限要素法、連続体シミュレーション | 秒~時間 | 数cm以上 | 材料強度、熱伝導 |
| マルチスケール | スケール連携手法 | スケールに依存 | スケールに依存 | 複合現象の解析 |
例えば、電子の励起状態が関わるような現象は量子科学計算が得意とする分野です。 逆に、2種類の材料の混ざり具合を観察するには粒子法などが有力な方法です。
マルチスケールシミュレーションは、複雑な現象の観測に必要な技術として注目されていますが、まだまだ発展途上の技術です。 そのため、実際の材料開発現場で使うのは難しいでしょう。
2. 材料開発現場におけるシミュレーション
材料開発に適用する際に必要なこと
必要な手続きを大まかにまとめると、次のようになります。
- 知りたい材料特性の特定: 特性により利用可能なシミュレーション手法が限定される場合あり
- 1の特性発現機構を推測: 発現機構(スケール)により使うべきシミュレーション手法が異なる
- 計算機資源の確保: PC、ワークステーション、HPC、クラウドなど
- 原材料の基本物性の取得: シミュレーションにより必要な情報が異なる
- 実験結果との比較: 設定バラメータ妥当性の確認
- 類似条件でシミュレーション実施: 一番よい条件(材料)の探索
シミュレーション(計算機実験)の利点
- 実験コスト: 一般的にウェットな実験よりも計算機実験のコストの方が安い
- クラウド環境の利用で固定費なし
- 理論上24時間365日実験可能
- オペレーター数で多並列可能
- 途中経過含めて可視化可能で、理解しやすい
- 実験条件の多様性: ウェットな実験では難しい条件でも可能
- 極限状態(温度、圧力など)
- 極小空間
シミュレーションの欠点
- 結果の妥当性判断が難しい: 複雑な系になるほど困難
- 実験結果との一致しない場合、根拠薄弱であってもパラメータを実験結果と一致するように調整される
- 実験結果との差が何に起因するのか(手法に含まれる仮定や近似?推測した発現機構?パラメータ?その他?)
- 理想状態と現実系との違いの再現が難しい: 履歴などが問題となる場合
- 発現機構(スケール)が異なると、別のシミュレーションを実施する必要がある - 領域ごとに専門家を養成・維持する必要
3. MIとの使い分け
MIが有利
- 発現機構が異なる特性値を同じ説明変数で予測することができる
- 複雑な発現機構、多特性値を同じ説明変数で予測することができる
- コントロール可能な説明変数での特性値の到達可能範囲を予測することができる
シミュレーションが有利
- ウェットな実験のコストが高い時
- シミュレーションの妥当性が確認されている実験系での最適解を導きたい時
つまり、材料開発の実務家視点では、シミュレーションは特定分野で輝ける手法であり、MIは大きな得意不得意はなく気軽に利用できる手法である、ということになります。
4. まとめ
第三の科学と呼ばれているシミュレーションの特徴について述べてきました。
シミュレーションは、ウェットな実験結果との比較が必ず必要なことやウェットな実験との差が何に起因するのかの判断が難しいことが多いため、複雑な系になるほど適用が難しくなります。 また、発現機構毎にシミュレーション手法が異なることから、領域毎に専門家を養成・維持する必要があることから、引き続き小規模事業者が手を出しにくい分野です。
一方で、シミュレーションの妥当性が確認された実験系では、計算機パワーに任せて最適解をいち早く求めることができる破壊力を有しています。
従って、普段のツールとしてMIを使い、シミュレーション技術が進展した分野では公的研究機関などとの共同研究を通して技術導入の要否を判断する、そのような使い分けが現実的ではないかと思います。
次回予告:MIで「つなぐ」ということ
次回は、MIで工程間をつなぐ、ということについて考える予定です。
参考文献
- Frenkel, D., & Smit, B. (2001). “Understanding Molecular Simulation: From Algorithms to Applications” (2nd ed.). Academic Press.
- Allen, M. P., & Tildesley, D. J. (2017). “Computer Simulation of Liquids” (2nd ed.). Oxford University Press.
- Lu, G., & Kaxiras, E. (2005). “An Overview of Multiscale Simulations of Materials”. arXiv preprint cond-mat/0401073.
- 渡邉浩志 (2020). “計算力学におけるマルチスケール・マルチフィジックス シミュレーションの動向”. トライボロジスト, 65(11), 647-654.
用語解説
- 第一原理計算: 実験データに依存せず、量子力学の基本原理(シュレーディンガー方程式)から出発して物質の性質を計算する手法
- 分子動力学法: 原子や分子の運動方程式を数値的に解くことで、物質の動的性質を調べるシミュレーション手法
- 有限要素法: 連続体を小さな要素に分割し、各要素での物理現象を数値的に解析する手法
- マルチスケールシミュレーション: 異なる時間・空間スケールの現象を組み合わせて解析するシミュレーション手法